公益財団法人 日中友好会館 JAPAN-CHINA FRIENDSHIP CENTER
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  長野県下ホームステイの感想  
 

忘れがたい信州小布施
7月27日、日中友好会館後楽寮主催のホームステイで長野県上高井郡小布施町へ行きました。
はじめの日は、午後小布施の国際会館の近くに風味堂という店を持っていらっしゃる安財さんが世話してくれました。まず露天風呂を案内してくださって、夕日に照らされる靄の景色を眺めながら温泉に入ると、一日のたびの疲れは完全に取れ、肌もつるつるで気持ちよくなりました。
昔小布施には文化人が多かったと聞きました。温泉では書道の名人二人に出会いました。彼らの書道は恰も竜がとび、鳳が舞うように、筆勢雄勁で生き生きとしているばかりか、中国語についての造詣も極めて深いのでとても驚きました。
夕食は全部安財さんの畑で一緒にとった材料を使って、調理師の奥さんがいろいろご馳走を創ってくださいました。久しぶりに畑で完熟した新鮮な野菜を沢山食べられて良かったです。

小布施は 昼間は東京なみに暑いですが、夜になると、寒くなるほど涼しくなってきました。布団を掛けると汗をかきますが、掛けないと寒かったです。そのため、私たち二人とも翌日風邪気味になってしまいました。  
東京は一日中クーラーがないと眠れないのに、小布施では夜には扇風機も要りません。都会よりきれいな星空を見、涼しくてさわやかな空気の中で、この空を一人で見ているのはもったいないなあと思ったりして、4時まで寝つけませんでした。
 翌日、6時に起こされました。小布施の人々はみんな早いです。7時半に仕事が始まるそうです。第二日目は桜井さんが案内してくださいました。七代目の社長、昭和2年生まれ。絵画、古美術に造詣が深いです。伝統の栗菓子の味にいっそうの磨きをかけ、衛生的な近代設備の下、安全で衛生的な製品を作っていらっしゃいます。昔は味さえ良ければ受けましたが、生活のレベルの向上にしたがって安心で食べられるものでないといくら美味しくても売れないとの話でした。彼の栗菓子工場は小布施で最も大きくて近代的です。倉庫内の運搬はコンピュータコントロールで作業員がいません。職場はまるで手術室のようで、食品の衛生状態にひどくこだわる人でも安心して食べられます。

9時に町長を表敬訪問し、町長にお会いした時、町づくりについて教えていただきました。
現在人口は1万2千人、総面積は約19平方キロ、半径2キロに全戸が入るという小さな町ですが、『内側は個人のもの、外側はみんなのもの』という節度を守ることを基本として、町の建物の外側がすべて周辺環境との調和に配慮し、近代工業、農業を発展させると同時に、絵師の北斎などの伝統文化も大切にする持続性のある経済発展を目指しているそうです。小布施の至る所に自ら『画狂人』と号した絵師、北斎が描いた絵があります。絵柄には中国の伝統的な色彩で、龍と鳳凰が描かれている舞台「水滸伝」の人物画があり、版画の分野でも時代を切り開くほどの新機軸を打ち出した画家なので、毎日数多くの観光客が集まってきています。
小布施の町を歩きながら、中国の農村のことを思い出しました。中国の農村部は小布施と比べれば、かなりの差がありますが、小布施に学ぶところが多いです。

ホームステイの滞在の間、日本の家庭生活の良さも初めて味わうことができ、楽しかったばかりか、いい勉強にもなりました。いい人にも会いました。お世話になった桜井さんも安財さんも忙しい中、いろいろなところをわざわざご案内してくださいました。長野駅での名残惜しい気持ち、深く心に焼き付いています。
(2004.7 後楽寮寮生 車 小平)


2004年8月24~26日、日中友好会館後楽寮は寮生を対象とする長野県でのホームステイを行いました。
今回のホームステイ活動は会館の堀口さんが一行を率いて、中国大使館の2名の方と寮生の18人の20人からなっています。滞在先は岡谷8人、塩尻2人、松本10人でした。
新宿駅から目的地に向かう途中、皆さんはうきうきする気持ちと、少し不安な気持ちとを抱いているようで、自分を受け入れるご家族はどのようなご家族であろうかとか、自分を優しくしてくださるだろうかとか考えているようです。そのような気持ちを持っているためか、行きは特に時間がかかったような気がします。

私たち松本市の10人チームはようやく目的地―終点の松本に着きました。迎えるために訪れた方はあれほど多いのは思いがけないことでした。安曇郡の日中友好協会会長小穴さんを始めとする歓迎団です。それぞれ自分の「お父さん」に連れられ、車に乗って豊科町の役場に来ました。村上町長を始めとする役員はすでに接客室に待っておられました。ユーモラスに満ちた挨拶を聞いて、皆さんはほっとした表情に変わりました。

歓迎パーティの盛大さは、私たちにとってまた一つの意外な驚きでした。小穴会長さんは歓迎の挨拶のあと、私たち4人もそれぞれ感謝の挨拶をしました。「皆様の中国に対する友好感情は心より感謝いたします」というのが私たちに共通した心からの言葉です。
隣席の方と話しているうちに木下さんの話に心が打たれました。それによると、木下さんは1944年ごろから10年間ずっと中国黒竜江省通河県とある村にいました。お母さんと弟さんは戦争中になくなり、お兄さんは敗戦後、シベリアに連行され、なくなりました。木下さんは、残留孤児として村の人に受け入れられ、青春時代を中国で過ごしていました。その時の読書は「梁山泊与祝英台」〔小八議〕などでした。自分の養父母はとても優しい人でしたが、もうなくなり、一人のお姉さんは七十歳ぐらいで、健在で、五年ほど前に中国へ会いに行ったそうです。木下さんは1954年ごろ日本に戻って、まず日本語学校に入り、それから東京でクリーニング業に続き、何年か前に豊科町に移り、現在は中国語教師をもしています。穏やかな口ぶりでしたが、顔にはその時の辛さ、悲しさが刻まれています。

翌日、私たちはお父さんに豊科町EPSON、ガラス工場、松本城を案内していただきました。26日、わさび田を見学したのち、送別会に出ました。小穴会長を始めとする協会の皆様の挨拶と私たちの挨拶の後、皆さんは飲んだり、話したりしながら、「北国の春」「大海?故?」など歌を歌いました。「北国の春」の「北国」とは長野県を指していることを初めて知ることが出来ました。
「美しい日々は特に短く見える」という言葉のとおり、早や別れの時が来ました。ほんとうに「帰りたくない」気持ちになりましたが、順調に行われた今回のホームステイはいい思い出になりました。松本駅に向かう途中、お父さんの話は忘れられません。「中日両国の首相は今のような態度はだめ。進んでお互いに訪問し合い、落ち着いて話し合うべきです」「今の状態は中国に対しても日本に対しても損」と話しておられました。
(2004.8 後楽寮寮生 于 桂玲)

 
 
ホストファミリーとのスナップ

EPSONにて
 
 
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